日本代表監督列伝(日本代表)

【監督列伝】ハンス・オフト 日本代表初の外国人監督、1992年アジアカップで初優勝

ハンス・オフト氏は1947年6月27日、オランダ・ロッテルダム生まれ。選手としては、フェーンダム、ヘーレンフェーンなどでプレーし、指導者として日本に招かれ、1992年に、日本代表初の外国人監督(初のプロ契約の代表監督)に就任した。

就任後は、代表を、27試合16勝7分4敗(Aマッチ)と結果を残し、1992年のアジアカップ(広島)では、決勝でサウジアラビアに1-0で勝って初優勝(1992年アジアカップの総括)、ダイナスティカップも制した。しかし、1994年W杯の最終予選では、最終節のイラク戦の終了間際に同点にされ、「ドーハの悲劇」でW杯出場を逃した。その後、ジュビロ磐田、京都、浦和で指揮を執り、浦和では2003年のナビスコカップ優勝を経験した。2013年に日本サッカー殿堂に選ばれた。

ロッテルダムから日本サッカーとの出会いへ

ロッテルダムで育ち、フェイエノールトのユースを経て、フェーンダム、カンブール、ヘーレンフェーンなどでプレーした。選手としては20代後半で負傷のため引退し、その後コーチの道に進む。1976年にオランダの青少年代表の育成プログラムのスタッフとなり、来欧した日本の高校選抜の世話をしたことが、日本との最初の接点だった。1982年にはヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に短期コーチとして招かれ、2部からの昇格と天皇杯優勝に貢献。1984年から広島のマツダSC(現・サンフレッチェ広島)でコーチ、のち監督を務め、1部昇格や天皇杯決勝進出にも関わった。

初の外国人代表監督への抜擢

当時の日本サッカー協会強化委員長だった川淵三郎氏は、ヤマハの試合内容の変化から、オフト氏の指導に注目していた。「日本人監督では限界がある」と考えた川淵氏は、1991年にオランダで直接交渉し、外国人として初めて日本代表の監督に招いた。就任会見で「W杯に日本を出場させるために来た」と話したが、当時の記者たちの中には、失笑を漏らす者もいたという。しかし、代表は短い期間で見違えるように成長し、メディアは「オフト・マジック」ともてはやした。

「アイコンタクト」「スモールフィールド」の戦術

オフト氏の指導は、複雑な戦術ではなく、選手がすぐ理解できる言葉を使って戦術を浸透させることが特徴だった。

  • スモールフィールド:DF・MF・FWの3ラインをコンパクトに保ち、選手同士の距離を縮める
  • トライアングル:ボール保持者の周囲に三角形のパスコースを作る
  • アイコンタクト、コーチング:声掛けと目線の合図で意思疎通を図る
  • タスクとディシプリン:各自の役割と規律を守る
  • サイドアタックとターゲットマン:ピッチの幅を使い、ボールを収めるFWを生かす

当時のキャプテン柱谷哲二氏は「欧州では育成年代がやっていること」と話したが、これらの言葉が選手に共通のイメージをもたらし、強い相手にもパスを回せるようになったという。ラモス瑠偉氏との間では、練習法や起用をめぐる衝突もあったが、アジアカップが終わる頃には、ラモス氏が「オフトを男にしたい」と話すほどに関係が変わっていた。

1992年、そしてドーハまで

1992年夏のダイナスティカップで優勝、秋のアジアカップ(広島)では日本が初めてアジアの頂点に立った。この大会には三浦知良選手(カズの列伝)らが躍動し、開幕間もないJリーグの熱狂とも相まって、日本代表は社会現象となった。1993年にはアフロ・アジア選手権も制している。

1993年10月、カタールのドーハで行われたアメリカW杯アジア最終予選では、最終節のイラク戦に2-1とリードしながら、終了間際の失点で引き分け、W杯出場を逃した。「ドーハの悲劇」と呼ばれるこの試合の後、オフト氏は退任した。左サイドバックの都並敏史氏を負傷で欠いた際に、控え選手の起用が固まらなかったことなどが、後に悔やまれる点として語られる。

Jリーグでの指導者人生

1994年からジュビロ磐田を率い、チームを強豪に育てた。1998年に京都、2002年から浦和を指揮し、浦和では2003年のナビスコカップで、クラブ初のタイトルをもたらした。2008年には、J2降格の危機にあった磐田の監督に緊急就任し、入れ替え戦を制して残留に導いた。Jリーグ通算100勝は、当時の外国人監督として最多だった。オフト氏の考え方は、日本のサッカーが「世界を意識して戦う」ための最初のきっかけとして、今も高く評価されている。

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