日本代表選手列伝(日本代表)

【選手列伝】中村俊輔 左足の精度で世界を魅了、セルティックでSPL3連覇

中村俊輔選手は1978年6月24日、横浜市生まれのMF。横浜マリノス(1997〜2002年)から、レッジーナ(2002〜05年)、セルティック(2005〜09年)、エスパニョール(2009〜10年)を経て、横浜F・マリノス(2010〜17年)、磐田(2017〜19年)、横浜FC(2019〜22年)でプレーした。

セルティックでは、スコットランド・プレミアリーグで3連覇(2005〜08年)を達成し、2006-07シーズンには年間最優秀選手を含む個人賞を独占した。日本代表では98試合24得点。2002年W杯は最終メンバーから落選したが、2006年、2010年のW杯に出場(2006年・2010年の総括)。アジアカップでは2000年、2004年の優勝に貢献し、2004年大会では最優秀選手に選ばれた(2004年アジアカップの総括)。Jリーグの年間最優秀選手は2000年と2013年に受賞している。

生い立ちと高校時代

横浜市で育ち、5歳で地元クラブの深園FCでボールを蹴り始めた。中学年代に日産(のちの横浜マリノス)のジュニアユースに入ったものの、体格の小ささもあってユースへは昇格できなかった。そこで自ら複数の高校のセレクションを受け、桐光学園高校(川崎市)に進学する。高校では全国高校選手権に出場し、3年時には準優勝に導いた。この時期から、練習後に毎日フリーキックを蹴り込む習慣を続けていたと伝えられる。1997年に、かつて昇格を果たせなかった横浜マリノスへ入団した。

横浜マリノスからイタリア、スコットランドへ

プロ1年目の1997年に直接フリーキックでJリーグ初ゴールを決めて新人賞を獲得し、1999年から10番を背負った。2000年にはJリーグ最優秀選手に選ばれ、22歳での受賞は歴代最年少とされる。ところが2002年W杯の代表最終メンバーから外れ、その直後の2002年7月にセリエAのレッジーナへ移籍した。初年度に7得点(いずれもFKとPK)を挙げ、チームのセリエA残留に貢献した。

2005年夏に加入したセルティックでは、ゴードン・ストラカン監督の下で中心選手となった。2006年9月13日のマンチェスター・ユナイテッド戦で日本人として初めてチャンピオンズリーグで得点を挙げ、同年11月21日にはセルティック・パークで同じ相手に決めた約30メートルのFKで、クラブ史上初のグループステージ突破に貢献した。スコットランドリーグ優勝は2005-06、2006-07、2007-08の3連覇で、リーグカップは2006年と2009年、スコティッシュカップは2007年に獲得している。

エスパニョールでプレーした後、2010年に横浜F・マリノスへ復帰。2011年からは主将を務め、2013年にはJリーグ最優秀選手に2度目の選出を受けた。Jリーグで複数回MVPに選ばれたのは中村氏が唯一である。FKの名手として、直接FKでの得点はJリーグ歴代最多クラスの記録を持つ。2017年に磐田、2019年に横浜FCへ移り、2022年10月に現役引退を発表した。

日本代表での歩み

  • 2000年:シドニー五輪(U-23)でベスト8。A代表デビューはアジアカップ予選のシンガポール戦で、本大会の優勝(2000年アジアカップの総括)では全試合に出場
  • 2002年:トルシエ監督(トルシエ氏の列伝)のW杯メンバーから落選。直前のホンジュラス戦で2得点を決めた後に負傷していた
  • 2003・2005年:コンフェデレーションズカップで通算4得点。2005年はブラジル戦での得点など1得点2アシストでベストイレブンに選出
  • 2004年:アジアカップ優勝、大会MVP
  • 2006年:ドイツW杯初戦のオーストラリア戦で先制点(日本は1-3で逆転負け)
  • 2010年:南アフリカW杯に出場後、代表を退く

ジーコ監督の攻撃的なチームでは、名実ともに中盤の司令塔となった。

プレースタイルと引退後

左足から繰り出す正確なキックが最大の武器で、直接FK、CK、ロングパスのどれでも決定機を作れた。ゴール前でも中盤でもプレーできる万能型のプレーメーカーだった。引退後は2023年に横浜FCのコーチに就任し、現在は日本代表のコーチとして指導者の道を歩んでいる。

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