【選手列伝】澤穂希 なでしこジャパンを世界一に導いたレジェンド、日本代表205試合83得点
澤穂希氏は1978年9月6日、東京都府中市生まれのMF。日テレ・ベレーザ、アメリカのデンバー・ダイヤモンズ、アトランタ・ビート、ワシントン・フリーダム、INAC神戸でプレーした。日本代表では、男女を通じて歴代最多の205試合に出場し、83得点を挙げた。
W杯には6度、五輪には4度出場した。2011年のW杯ドイツ大会では、大会最優秀選手(ゴールデンボール)と得点王の二冠に輝き、決勝のアメリカ戦では延長後半に同点ゴールを決めて、日本の初優勝に貢献した(2011年W杯の総括)。この活躍で、FIFA最優秀選手賞(2011年)を、アジア人として初めて受賞した(男女を通じて)。2012年のロンドン五輪では銀メダル(2012年五輪の総括)、2015年のW杯では準優勝(2015年W杯の総括)を経験。2015年12月16日に現役引退を表明した。
少女時代とベレーザ入り
府中市で育ち、小2のときに兄と一緒に地元の少年サッカークラブに入った。女子であることで入団を渋られたが、試合でいきなりゴールを決めて正式入団となり、年上の男子に囲まれてプレーしたことで、キック力と技術が磨かれたと本人は語っている。中学入学と同時に読売クラブ女子・メニーナに入団し、わずか1か月でトップチームのベレーザに引き上げられた。1991年7月に日本女子サッカーリーグでデビューし、初ゴールも挙げている。
1993年12月、15歳で日本代表に初招集され、アジア選手権のフィリピン戦でデビュー。この試合で4得点を挙げ、鮮烈なデビューを飾った。1995年には初のW杯となるスウェーデン大会でベスト8に進み、1996年のアトランタ五輪にも出場した。
米国挑戦とベレーザ復帰
1990年代末に国内の企業が次々と女子チームを廃部にしたことを受け、1999年に大学を中退して米国へ渡った。デンバー・ダイヤモンズ、アトランタ・ビートでプレーし、俊敏なプレーで「クイック・サワ」の異名を取った。2003年に米国のプロリーグが休止したのを機に帰国し、日テレ・ベレーザに復帰。2004年のアテネ五輪アジア最終予選の北朝鮮戦では、ひざの負傷をおして出場し、日本を2大会ぶりの五輪へ導いた。同年にはアジア年間最優秀選手にも選ばれ、2006年と2008年にはなでしこリーグMVPを受賞している。
2007年に佐々木則夫監督(佐々木氏の列伝)が就任すると、ボール奪取と展開力を評価されてセンターハーフに移り、攻守の要として代表を支えた。2009年には米国のWPSワシントン・フリーダムでプレーし、2011年にはINAC神戸へ移籍した。
2011年W杯、世界の頂点へ
キャプテンとして臨んだ2011年のドイツ大会では、5得点1アシストの活躍を見せた。
- グループリーグのメキシコ戦:ハットトリック(大会最年長ハットトリックの記録を更新)
- 準々決勝のドイツ戦:決勝点をアシスト
- 準決勝のスウェーデン戦:決勝点
- 決勝のアメリカ戦:延長後半12分に同点ゴール。PK戦の末に日本が初優勝
世界ランク1位のアメリカを破ったこの快挙は、東日本大震災に見舞われた日本に大きな勇気を与えたと世界中のメディアが伝えた。大会後はFIFA最優秀選手賞に加え、国民栄誉賞(なでしこジャパンの一員として)、紫綬褒章などを受けている。
最後まで走った現役生活
2012年のロンドン五輪では決勝でアメリカに敗れたが、日本女子代表として初の五輪メダル(銀)を獲得した。2014年にはAFC(アジアサッカー連盟)の初代殿堂入りを果たし、2015年のカナダW杯には自身6度目の出場で、男女を通じて世界最多のW杯出場を記録した(ギネス世界記録に認定)。同大会は準優勝だった。2015年12月27日の皇后杯決勝では、後半33分にCKからヘディングで決勝ゴールを決め、有終の美を飾った。
代表通算は205試合83得点。2011年7月には釜本邦茂氏(釜本氏の列伝)の代表得点数を上回り、男女を通じて日本代表の最多得点者となった。ボールを奪う力、展開力、そして苦しい場面での勝負強さで、日本女子サッカーの歴史を切り開いた存在である。