【監督列伝】イビチャ・オシム 「日本人らしいサッカー」を目指した名将、2007年アジアカップ4位
イビチャ・オシム氏は1941年5月6日、サラエボ生まれ。旧ユーゴスラビア代表のFWとして、1964年の東京五輪にも出場し、1968年の欧州選手権では準優勝。指導者としては、ユーゴスラビア代表を率いて1990年のW杯でベスト8、ジェフユナイテッド市原・千葉では、2005年のナビスコカップ優勝と、クラブ躍進に大きな役割を果たした。
日本代表の監督は、2006年7月に就任。2007年のアジアカップでは、準々決勝でオーストラリアにPK戦で勝ち、準決勝でサウジアラビアに敗れ、3位決定戦で韓国にPK戦で敗れて4位(2007年アジアカップの総括)。同年11月、脳梗塞で倒れて退任した。「サッカーで走るのは当たり前です」という言葉でも知られ、2022年5月1日に逝去した。
サラエボでの少年時代と選手生活
第二次世界大戦中のサラエボに生まれ、地元クラブのジェリェズニチャルのユースでサッカーを始めた。サラエボ大学で数学を学んだ知性派でもある。1959年にトップチームでプロ入りし、相手を抜き去るドリブルで知られた。ユーゴスラビア代表としては1964年の東京五輪で初めて代表のユニフォームを着て、1968年の欧州選手権では決勝に進み、イタリアに敗れたものの準優勝。代表通算は16試合8得点だった。当時の国外移籍の年齢制限を経て、フランスのストラスブールなどでプレーして選手生活を終えた。
ユーゴスラビア代表監督とサラエボの悲劇
1978年に古巣ジェリェズニチャルの監督となり、1984-85シーズンには、UEFAカップで準決勝まで進出した。1986年にはユーゴスラビア代表監督となり、1990年のW杯では、スペインに2-1で勝ってベスト8。準々決勝では、マラドーナ擁するアルゼンチンと対戦し、1人退場となりながらも延長を含めて無失点で持ちこたえ、PK戦で惜しくも敗れた。
1992年の欧州選手権を前に、故郷のサラエボが戦火に見舞われたことから代表監督を辞任した。オシム氏は「私の国には欧州選手権に出る資格がない」という趣旨の言葉を残した。その後、パルチザン、パナシナイコス、オーストリアのシュトゥルム・グラーツ(1998年、1999年にリーグ優勝)で指揮を執り、1998-99シーズンから欧州チャンピオンズリーグにも出場した。
ジェフ千葉での躍進
2003年、ジェフユナイテッド市原の監督に就任。限られた予算の中で、運動量と人とボールが動く攻撃的なサッカーを追求し、2005年にナビスコカップでクラブ初のタイトルをもたらした。本拠地の市原臨海競技場で20試合連続無敗を記録するなど、ホームでの強さも際立っていた。走りながら考えるサッカーという理念は、多くの選手の成長を促した。
日本代表監督として
2006年7月、ドイツW杯後の日本代表監督に就任した。「日本人らしいサッカー」を掲げ、ドイツW杯を経験した中堅と、巻誠一郎選手、駒野友一選手、鈴木啓太選手ら国内組の若手を組み合わせ、選手の入れ替えを積極的に進めた。ジーコ監督(ジーコ氏の列伝)の路線からの転換であり、「ポリバレント」(複数のポジションをこなす能力)という言葉を、日本のサッカー界に広めたのもオシム氏である。
- 通算20試合12勝5分3敗
- 2007年アジアカップ:オーストラリアにPK戦勝ち、準決勝でサウジアラビアに敗れ、3位決定戦で韓国にPK戦負けの4位
- 2007年11月:脳梗塞で倒れて退任。後任は岡田武史氏(岡田氏の列伝)
退任後の2008年6月には日本サッカー協会のアドバイザーとなり、会見では「向こうの世界に行って戻ってきました」と語る「オシム節」も健在だった。その言葉は、今も日本サッカーの育成や指導の原点として、多くの指導者に語り継がれている。