【監督列伝】岡田武史 1998年に初出場を決め、2010年には日本を初の海外大会ベスト16へ
岡田武史氏は1956年8月25日、大阪市生まれ。古河電工でプレーしたDFで、日本代表としても、24試合に出場した。
日本代表の監督は2期。第1期は、1997年10月に加茂周氏の更迭を受けて昇格し、ジョホールバルでのイラン戦に勝ってW杯初出場を決めた。1998年のW杯本大会では3戦全敗、中山雅史選手の1得点に終わった(1998年W杯の総括)。第2期は、2007年12月に就任(オシム氏の後任)し、2010年のW杯では、大会前に4連敗と苦しんだが、カメルーンに1-0、オランダに0-1、デンマークに3-1でグループ2位、ラウンド16でパラグアイにPK戦で敗れた(2010年W杯の総括)。クラブでは、横浜F・マリノスで、2003、2004年のJ1連覇を達成している。
選手時代と指導者を志した転機
大阪市で生まれ、少年時代は野球に熱中し、サッカーに転じたのは中学時代。1968年のメキシコ五輪での日本代表の活躍が、大きなきっかけだったという。大阪府立天王寺高校では、主将として練習メニューまで考えた。早稲田大学に進み、1980年に古河電工へ入社して、頭脳派のセンターバックとして活躍した。1985年のJSL優勝、1986年の日本チーム初となるアジアクラブ選手権優勝に貢献し、JSL1部で通算189試合9得点を記録した。日本代表としては、1980年のジャパンカップでデビューし、国際Aマッチ24試合1得点。得点は、1982年のアジア大会・韓国戦の代表唯一のゴールである。
1990年1月のゼロックス・スーパーサッカーで、日本リーグ選抜の主将としてバイエルン・ミュンヘンに1-2で敗れた体験が、転機になったといわれる。「彼らに追いつく」のではなく、「彼らに勝てる選手をどう育てるか」に関心が移り、現役を退いて指導者の道を歩み始めた。
第1期:ジョホールバルの歓喜
1997年10月、W杯アジア最終予選でカザフスタンと1-1で引き分けた後、加茂周氏(加茂氏の列伝)が更迭され、コーチだった41歳の岡田氏が監督に昇格した。日本は最終予選の第3代表決定戦(ジョホールバル)でイランに延長Vゴールの3-2で勝ち、W杯初出場を果たした。チームは、フランスW杯の直前にカズ(三浦知良氏、列伝はこちら)らを最終メンバーから外すという難しい決断を下している。本大会ではアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに3連敗となり、中山雅史選手のゴール1つに終わった。
クラブでの成功:コンサドーレ札幌と横浜F・マリノス
W杯後は、コンサドーレ札幌の監督として2000年にJ2優勝とJ1昇格を果たした(得点王は大分から加入したウィル)。2003年には、横浜F・マリノスの監督に就任し、就任1年目から1stステージ、2ndステージともに制する「完全優勝」を成し遂げた。2004年も1stステージを制し、Jリーグ初の3ステージ連続優勝を達成。チャンピオンシップではPK戦の末に浦和を破り、2年連続の年間王者に輝いた。
第2期:南アフリカW杯でのベスト16
- 2007年12月:オシム監督(オシム氏の列伝)の病気による退任を受けて就任
- 2010年:直前の親善試合で4連敗と苦しみ、守備を重視する形に戦術を転換
- W杯南アフリカ大会:カメルーンに1-0、オランダに0-1、デンマークに3-1(本田圭佑選手、遠藤保仁選手のFKなど)で、グループ2位通過
- ラウンド16:パラグアイと0-0の末、PK戦で敗れる(日本にとって初めての、海外大会での決勝トーナメント進出)
本田圭佑氏(本田氏の列伝)を1トップに据える決断や、直前の戦術変更が話題となり、大会前の低い評価を覆した(2010年W杯の総括)。
その後の活動
代表退任後は、中国の杭州緑城で指揮を執った。現在は、FC今治の運営会社の代表として、地方都市からの「日本サッカーの底上げ」に取り組んでいる。W杯を0勝3敗で終えた第1期と、ベスト16に導いた第2期を通じて、日本代表が世界と戦うための現実的な方法を追求し続けた指導者である。