日本代表監督列伝(日本代表)

【監督列伝】ジーコ 2004年アジアカップ連覇、ブラジルの英雄が率いた日本代表

ジーコ氏は1953年3月3日、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。フラメンゴ、ウディネーゼ、住友金属(現・鹿島アントラーズ)でプレーしたMFで、ブラジル代表としても活躍し、Jリーグ創設期にも、大きな影響を残した。

日本代表の監督は、2002年7月に就任し、2006年のW杯まで務めた。71試合37勝16分18敗(Aマッチ)。2004年のアジアカップ(中国)では、アウェーの雰囲気の中で連覇を達成(2004年アジアカップの総括)。コンフェデレーションズカップは、2003年、2005年とも、グループ敗退(2003年、2005年)。W杯予選では、最速でドイツ大会の出場を決めたが、2006年のW杯本大会ではグループで未勝利のまま敗退した(2006年W杯の総括)。2016年に日本サッカー殿堂に選ばれた。

「白いペレ」の少年時代からフラメンゴへ

リオデジャネイロの家庭で5男1女の末子として生まれた。14歳でフラメンゴのユースに入団した時は155センチ37キロと小柄だったが、ジムで体を鍛えて弱点を克服し、1971年にトップチームへ昇格。10番を背負う中心選手として、1980年の全国選手権、1981年のコパ・リベルタドーレスとトヨタカップ(リバプールに3-0)の制覇に貢献した。1981年のリベルタドーレスでは11得点で得点王となり、トヨタカップではMVPにも選ばれている。フラメンゴでの得点数はクラブ最多とされ、ペレが「私に最も近づいたのはジーコだった」と評したことで知られる。

ブラジル代表としては1978年、1982年、1986年のW杯に出場した。優勝は逃したが、1982年のチームは、ブラジル史上でも屈指の攻撃陣と言われている。1983年からはイタリアのウディネーゼに移籍し、1年目にセリエAで19得点を挙げて、得点ランキング2位に食い込んだ。

鹿島アントラーズとJリーグへの貢献

ブラジルのスポーツ担当の大臣を務めた後、1991年に当時JSL2部の住友金属工業に入団した。汚れたスパイクが散らかった更衣室に「こんな所では寛げない」と怒るなど、日本人のサッカーへの姿勢に厳しく接したというエピソードもある。1991-92シーズンの2部で21得点を挙げて得点王となり、1993年のJリーグ開幕戦(名古屋戦)では、Jリーグ初のハットトリックを達成した。ジーコ氏が植えつけた「勝利への執念」の文化は、鹿島を国内屈指の強豪へと押し上げ、その後の日本サッカーに大きな影響を与えた。

日本代表監督としての4年間

  • 2002年7月:日韓W杯後にトルシエ監督(トルシエ氏の列伝)の後任として就任
  • 2003年:コンフェデ杯で1勝2敗のグループ敗退。この頃にアルゼンチン戦での1-4の大敗を機に、DFラインを全員入れ替えた
  • 2004年:アジアカップ(中国)で劇的な勝利を重ねて連覇。W杯アジア1次予選は全勝で突破
  • 2005年:北朝鮮戦の勝利により、開催国のドイツを除く出場国の中で最初にW杯出場を決定
  • 2006年:ドイツW杯でグループリーグ敗退(1分2敗)

選手の自主性を重んじる「自由なサッカー」を目指し、中田英寿氏(中田氏の列伝)、中村俊輔氏(中村氏の列伝)、遠藤保仁氏(遠藤氏の列伝)らを起用した。一方で、戦術の指示が少なく、W杯本大会では組織としての課題も指摘された。欧州遠征でチェコを破り、イングランドと1-1で引き分けるなど、強豪相手にも互角に戦った時期もあった。

その後

代表監督退任後はトルコのフェネルバフチェを率いて、2007-08シーズンのチャンピオンズリーグで準々決勝に進んだ。現在は鹿島アントラーズのテクニカルアドバイザーを務めており、日本サッカーとの縁は今も続いている。

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