日本代表選手列伝(日本代表)

【選手列伝】中田英寿 セリエAで優勝を経験した日本人の草分け、W杯3大会出場

中田英寿氏は1977年1月22日、山梨県甲府市生まれのMF。ベルマーレ平塚(1995〜98年)からペルージャ(1998〜2000年)、ローマ(2000〜01年)、パルマ(2001〜04年)、ボローニャ、フィオレンティーナ、ボルトンでプレーした。ローマ時代の2000-01シーズンにはセリエAで優勝し、パルマでは2001-02シーズンにコッパ・イタリアを制した。

日本代表では77試合11得点。W杯には1998年、2002年、2006年の3大会に出場した(1998年、2002年、2006年の総括)。2001年のコンフェデレーションズカップでは準優勝に貢献し、大会のブロンズボールを受賞(2001年大会の総括)。1996年のアトランタ五輪では「マイアミの奇跡」を演じたメンバーの一人でもあった(1996年五輪の総括)。2006年のドイツW杯後の7月3日に、自身のホームページで現役引退を表明した。

平塚でプロ入り、19歳で世代を代表する存在に

山梨県の韮崎高校から1995年にベルマーレ平塚へ入団し、1年目から攻撃的MFとして多くの試合に出場した。この年、クラブは1995年のアジア・カップウィナーズカップを制し、中田氏は決勝で81分に決勝点を挙げている。1996年からは主力に定着し、1997年にはJリーグのベストイレブンに選ばれた。1997年、1998年にはアジア年間最優秀選手にも輝いている。

イタリアでの飛躍

1998年のフランスW杯後にペルージャへ移籍し、日本人ではカズ(三浦知良氏、列伝はこちら)に次いでセリエAに挑戦した選手となった。初年度は10得点を記録し、これは自身のシーズン最多得点である。2000年1月にはローマへ移籍し、2000-01シーズンのスクデット獲得に貢献した。同年5月6日のユヴェントス戦では、0-2で負けている後半に途中出場し、約30メートルの豪快なミドルシュートで1点を返して2-2の引き分けに持ち込んだ。優勝争いの中で、価値の大きな一撃だった。

2001年夏にはパルマへ、当時アジア人選手として史上最高額(約550億リラ)とされた移籍金で加入した。2001-02シーズンにはコッパ・イタリア決勝のユヴェントス戦で途中出場から得点を挙げ、優勝に貢献した。2004年1月にボローニャ、2004-05はフィオレンティーナ、2005-06はイングランドのボルトンで、選手生活の最後の1年を過ごした。

日本代表とW杯

1997年5月の韓国戦で代表デビューし、W杯予選では5得点を挙げた。1997年のジョホールバルでのイランとの第3代表決定戦では、日本の3得点すべてをアシストした。1998年のフランスW杯、2002年の日韓W杯、2006年のドイツW杯で、いずれも全試合に出場した。2002年にはチュニジア戦(2-0)で2点目を決め、日本の初の決勝トーナメント進出に貢献した。2006年のクロアチア戦では引き分けの中で存在感を示し、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

世代別代表でも、1993年のU-17世界選手権、1995年のU-20世界選手権、1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪と主要大会に出場した。一方、アジアカップの優勝メンバーには2000年・2004年とも入っておらず、W杯での実績とは対照的である。

プレースタイルと引退後

技術と視野の広さ、当たり負けしない体の強さ、中盤からペナルティエリアに飛び込む推進力、そして強烈なミドルシュートが持ち味だった。2004年3月には、ペレが選ぶ「FIFA 100」にアジアから選ばれた数少ない一人となっている。

2006年、29歳で現役を退いた後は、世界各地を旅しながらファッションや文化に関わる活動を続け、日本酒の魅力を海外へ発信する取り組みなどにも携わっている(公表されている範囲)。

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