オランダ代表選手列伝(オランダ代表)

【選手列伝】パトリック・クライファート 18歳でCL決勝のゴール、EURO2000で5得点のFW

パトリック・クライファート氏は1976年7月1日、アムステルダム生まれのFW。アヤックス(1994〜97年)でデビューし、1995年のチャンピオンズリーグ決勝(ミラン戦)で、18歳ながら途中出場して85分に決勝ゴールを決めた。その後、ミラン、バルセロナ(1998〜2004年、182試合90得点)、ニューカッスル、バレンシア、PSV、リールでプレーし、2008年に引退した。

オランダ代表では、1994年から2004年までに79試合40得点。1998年のW杯に出場し、EURO 2000では5得点で得点王(ミロシェビッチと同数)に輝き、準々決勝のユーゴスラビア戦ではハットトリックを達成した(1998年W杯の総括、EURO 2000の総括)。指導者としては、2025年にインドネシア代表の監督を務めた。

アヤックスの育成組織から生まれたストライカー

クライファート氏はアムステルダムで生まれ、アヤックスのユースで育った。1994年にトップチームデビューを果たすと、ルイス・ファン・ハール監督(監督列伝はこちら)の下、オーフェルマルス氏(選手列伝はこちら)、ダーヴィッツ氏、セードルフ氏らと同じ「黄金世代」の一員として頭角を現した。アヤックスではリーグ戦70試合39得点。リーグ優勝を1994-95、1995-96シーズンに経験し、1995年にはオランダの年間最優秀若手選手に選ばれている。

そして何より語り継がれているのが、1995年5月のチャンピオンズリーグ決勝、ミラン戦だ。試合終盤の85分、途中出場のクライファート氏が決勝ゴールを決め、1-0でアヤックスが欧州王者に輝いた。18歳での決勝弾は、大会史上でも最年少クラスの記録とされる。同年にはUEFAスーパーカップ、インターコンチネンタルカップも制している。

ミラン、バルセロナでの歩み

1997年にミランへ移籍したが、1シーズンでリーグ戦27試合6得点にとどまり、翌1998年にバルセロナへ移籍。ここでリバウド氏との強力なコンビを組み、1998-99シーズンにリーガ優勝を経験した。バルセロナでは6年間で、リーグ戦182試合90得点(公式戦249試合124得点)を記録している。その後は、ニューカッスル(2004〜05年、25試合6得点)、バレンシア(2005〜06年)、PSV(2006〜07年、リーグ優勝)、リール(2007〜08年)でプレーし、2008年に引退した。

オランダ代表での歩み

代表デビューは1994年。1996年のEURO予選のプレーオフではアイルランドから2得点を挙げて本大会出場に貢献し、本大会では、イングランドに1-4と敗れた試合で78分に一矢を報いる得点を挙げ、グループ突破の可能性をつなぐ貴重な1点となった(EURO 1996の総括)。1998年のW杯では準々決勝のアルゼンチン戦で12分に先制ゴールを決めて4位に貢献(1998年W杯の総括)。

もっとも輝いたのは、自国が共催した2000年のEUROだった。準々決勝のユーゴスラビア戦(6-1)でハットトリックを決め、大会通算5得点でミロシェビッチ選手と並ぶ得点王に輝いた。準決勝のイタリア戦では、PKがポストに当たるなど決定機を逃し、PK戦の末に敗れる悔しい結果となった(EURO 2000の総括)。この大会ではベストイレブンにも選出された。2004年のEURO終了後まで代表でプレーし、通算79試合40得点。この数字はオランダ代表歴代4位とされ、ベルカンプ氏(選手列伝はこちら)の記録も更新した。

引退後の指導者としての歩み

引退後はAZやNEC、オーストラリアのブリスベン・ロアーでアシスタントコーチを務め、ヨング・トゥウェンテの監督としては2011-12シーズンのリザーブリーグ優勝を果たした。2014年のW杯ではファン・ハール監督のアシスタントとして、オランダの3位に貢献している(2014年W杯の総括)。2015年にキュラソー代表の監督に就任。その後、パリ・サンジェルマンのスポーツディレクター、アヤックスのU-19監督、カメルーン代表のアシスタント(セードルフ氏のもとで)、バルセロナのアカデミー責任者などを歴任した。2023年にトルコのアダナ・デミルスポルを指揮し、2025年にはインドネシア代表の監督を務めた。

出典: Wikipedia(英語版)ほか

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