日本代表選手列伝(日本代表)

【選手列伝】川口能活 W杯4大会、PK戦で日本を救った守護神

川口能活氏は1975年8月15日、静岡県富士市生まれのGK。横浜マリノス(1994〜2001年)から、ポーツマス(2001〜03年)、デンマークのノルシェラン(2003〜05年)、磐田(2005〜13年)、岐阜(2014〜15年)、相模原(2016〜18年)でプレーした。

日本代表では116試合に出場。W杯には1998年、2002年、2006年、2010年の4大会に選出された。1996年のアトランタ五輪ではブラジル戦を完封し、2004年のアジアカップでは、準々決勝のヨルダン戦のPK戦で2本を止めて日本を勝利に導いた(2004年アジアカップの総括)。2000年、2004年の優勝に貢献し、2001年のコンフェデレーションズカップでは大会ベストイレブンにも選ばれた。2018年11月に現役引退を発表した。

少年時代から横浜マリノスの正GKへ

『キャプテン翼』の影響と兄の勧めで9歳からサッカーを始め、小学4年生から本格的にGKに専念した。清水商業高校(現・静岡市立清水桜が丘高校)を経て、1994年に横浜マリノスに入団する。1995年にはチームのJ1優勝に貢献し、Jリーグ新人王にも選ばれた。

「マイアミの奇跡」と初のW杯

1996年のアトランタ五輪では、ロナウドやリバウドらを擁する優勝候補ブラジルを相手に、28本ものシュートを浴びながら無失点で凌ぎ、1-0の勝利を支えた。「マイアミの奇跡」と呼ばれるこの一戦は、日本サッカー史に残る試合として語り継がれている(1996年五輪の総括)。同年にA代表へ初招集され、翌1997年2月のキングスカップ・スウェーデン戦で国際Aマッチデビュー。フランスW杯アジア最終予選には全試合に出場し、ジョホールバルでのイランとの第3代表決定戦にも守護神として立ち会った。

1998年のフランスW杯では初戦のアルゼンチン戦で相手の23本のシュートを1失点に抑えた。日本は3戦全敗だったが、失点はいずれも1点差で、川口氏の好守が光った(1998年W杯の総括)。

ライバルとの競争と主将の時期

トルシエ監督(トルシエ氏の列伝)の時代には楢崎正剛氏の台頭で出番が減ったが、2000年のアジアカップでは決勝のサウジアラビア戦を完封して優勝に貢献した。2001年のコンフェデレーションズカップでは正GKを務め、カナダ戦、カメルーン戦で完封して大会ベストイレブンに選ばれた。

2004年のアジアカップ準々決勝、ヨルダン戦のPK戦では2本を止め、日本の連覇を救った。2006年のドイツW杯ではクロアチア戦でPKを止めている(2006年W杯の総括)。同年8月にはオシム監督の下で主将に指名され、2007年アジアカップの準々決勝オーストラリア戦でもPK戦で2本を止めて勝利に貢献し、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(2007年アジアカップの総括)。

2010年の南アフリカW杯は、負傷から回復して岡田武史監督のメンバーに滑り込んだ。試合出場はなかったが、経験と統率力を買われ、大会前には主将に指名されている(2010年W杯の総括)。

海外挑戦とその後のキャリア

2001年にはイングランド・ポーツマスへクラブ記録の移籍金で加入したが、フィジカルの強いリーグに適応するまでに苦労し、出番は限られた。それでも明るい人柄でサポーターに愛され、2002-03シーズンのファースト・ディビジョン優勝(プレミアリーグ昇格)を経験している。2003年からはデンマークのノルシェランでプレー。2005年に日本へ戻り、磐田で9シーズンを過ごし、2010年にはリーグカップ優勝を経験した。FC岐阜、SC相模原でも第一線に立ち、2017年11月にはリーグ戦通算500試合出場を達成した。

引退後

2018年12月のJ3最終節で現役最後の試合に先発し、無失点で締めくくった。引退の理由は「日本サッカーに違う形で貢献したい」という思いだったと話している。2016年に指導者資格を取得し、日本代表などのGKコーチを務めた後、2022年からは古巣のジュビロ磐田でGKコーチを務めている。

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