【選手列伝】ヨハン・ニースケンス 1974年W杯決勝で開始2分にPK弾、クライフを支えた名MF
ヨハン・ニースケンス氏は1951年9月15日、ヘームステーデ生まれのMF。RCH(1968〜70年)からアヤックス(1970〜74年)に移り、バルセロナ(1974〜79年)、ニューヨーク・コスモス(1979〜84年)などでプレーし、1991年に引退した。
オランダ代表としては、1970年から1981年までに49試合17得点。1974年と1978年のW杯で準優勝し、1974年の決勝では、試合開始直後の2分にPKで先制点を決めた(1974年W杯の総括、1978年W杯の総括)。同大会ではブルガリア戦でPKを決め、ブラジル戦で決勝進出を決める得点も挙げた。引退後は、ヒディンク監督やライカールト監督のアシスタントも務めた。2024年10月6日に逝去した。
アヤックスで見つかった「走れるMF」
ヘームステーデの小さなクラブRCHでプレーしていたニースケンス氏を見出したのは、当時アヤックスを率いていたリヌス・ミケルス監督(監督列伝はこちら)だった。1970年にアヤックスへ加わると、当初は右サイドバックとして起用され、1971年の欧州チャンピオンズカップ決勝(パナシナイコス戦)でもその位置でプレーして優勝を経験した。翌1971-72シーズンからは中盤の中央に移り、ヨハン・クライフ氏(選手列伝はこちら)を支える役目を担った。豊富な運動量、確かな技術、そして自らも点を取れる得点感覚を併せ持ち、アヤックスはこの時期に欧州チャンピオンズカップを1971年から1973年まで3連覇している。リーグ優勝は1971-72、72-73の2回、インターコンチネンタルカップは1972年に制した。
バルセロナでは「ヨハン・セゴン」と呼ばれて
1974年にクライフ氏、ミケルス監督のいるバルセロナに移籍。ファンからは「ヨハン・セゴン(2人目のヨハン)」の愛称で親しまれた。在籍5年間でリーグ戦140試合35得点を記録し、1977-78シーズンにはコパ・デル・レイ、1978-79シーズンにはカップウィナーズカップのタイトルを獲得。1975-76シーズンにはリーガの最優秀外国人選手(ドン・バロン賞)にも選ばれた。1979年にはアメリカのニューヨーク・コスモスに移り、北米サッカーリーグ(NASL)で1980年、1982年の優勝を経験している。1985年には短期間フローニンゲンでもプレーし、その後はスイスの下部リーグなどで現役を続けた。
オランダ代表での歩み
- 1974年W杯:準優勝。決勝で開始2分にPKを決めた。大会ベストイレブンに選出
- 1976年欧州選手権:3位(EURO 1976の総括)。準決勝のチェコスロバキア戦では退場処分を受けた
- 1978年W杯:クライフ氏の不在の中、中盤の要として2大会連続の決勝進出に貢献
1974年の決勝では、キックオフ直後にオランダが延々とパスをつなぎ、西ドイツの選手が誰もボールに触れないうちにクライフ氏が倒された。そこで得たPKを、ニースケンス氏が落ち着いて決めた。これは決勝としてはW杯史上最速クラスの得点として今も語られる場面である。
引退後の指導者としての歩み
現役を退いた後は、スイスの下部クラブで指導者としての経験を積んだ。1995年から2000年にかけてはオランダ代表でヒディンク監督、ライカールト監督のアシスタントを務めた(ヒディンク監督の列伝、ライカールト監督の列伝)。2000〜04年にはNECナイメーヘンの監督を務め、その後、オーストラリア代表(2005〜06年、ヒディンク監督のもとで2006年W杯)、バルセロナ(2006〜08年、ライカールト監督のもと)、ガラタサライ(2009〜10年)でもアシスタントを担当。オランダB代表(2008〜09年)や南アフリカのマメロディ・サンダウンズ(2011〜12年)でも監督を務めた。師であるミケルス監督やクライフ氏の哲学を、後進に伝える立場を長く担ってきた人物だった。
出典: Wikipedia(英語版)ほか