【監督列伝】フィリップ・トルシエ フラット3で日本を2002年W杯ベスト16、アジアカップ優勝へ導いた
フィリップ・トルシエ氏は1955年3月21日、フランス・パリ生まれ。DFとして、アングレーム、ルーアン、ランスでプレーし、アフリカ各国の代表を経て、1998年9月に日本代表の監督に就任した。50試合23勝16分11敗(Aマッチ)。
「フラット3」で知られ、1999年のワールドユース(現U-20W杯)では準優勝、2000年のシドニー五輪ではベスト8(準々決勝でアメリカにPK戦負け、シドニー五輪の総括)、2000年のアジアカップ(レバノン)では優勝(2000年アジアカップの総括)、2001年のコンフェデレーションズカップでは準優勝(2001年コンフェデの総括)に導いた。そして、2002年の日韓W杯では、ベルギーと2-2、ロシアに1-0、チュニジアに2-0でグループ首位となり、日本初の決勝トーナメント進出、しかしトルコに0-1で敗れた(2002年W杯の総括)。2020年に日本サッカー殿堂に選ばれた。
フランスからアフリカへの遍歴
選手としては2部リーグ中心のDFで、1983年に引退。フランスサッカー連盟の育成機関(ヴィシーの国立サッカー学院)での指導を経て、1980年代後半にレッドスターの監督を務めた。転機はコートジボワールの名門ASECミモザで、加入1年目にリーグ優勝、さらに2度の優勝を果たした。その後、ナイジェリア、ブルキナファソ(1998年アフリカ・ネイションズカップで4位、同国史上最高)、南アフリカ(1998年W杯)を率い、アフリカで「白人の魔術師」と呼ばれた。
日本代表監督就任と「若手起用」路線
1998年、岡田武史氏(岡田氏の列伝)の後任として就任すると、通訳を介した意思疎通に苦労し、1999年のコパ・アメリカは1次リーグ敗退に終わり、メディアから批判を受けた。トルシエ氏はこれを受けて、若い世代の強化に力を注ぎ、U-20代表の指揮を兼ねて1999年ワールドユース(ナイジェリア)に参加。FIFA主催の国際大会で日本が初めて決勝へ進み、準優勝という結果を出した。小野伸二選手ら「黄金世代」が世界に名を知らしめた大会である。
2000年にはU-23代表としてシドニー五輪を率い、ベスト8。この世代の多くを、同年のアジアカップ(レバノン)のA代表に組み込み、優勝を果たしている(サウジアラビアとの決勝で1-0)。2001年のコンフェデレーションズカップでは準優勝となり(決勝でフランスに0-1)、大会前後のフランス戦の大敗(0-5)などで浮き沈みがあったものの、チームの成長を示した。
フラット3と規律ある組織
- フラット3:3人のDFが横一列に並び、ラインを高く保ってオフサイドを狙う。ラインコントロールを共有する意識が浸透した
- 厳格な規律:練習は常に緊張感があり、試合直前までスターターが分からない雰囲気を作ったと、小野伸二選手が語っている
- 合宿の工夫:ブルキナファソ合宿で孤児院を慰問するなど、選手に世界の多様さを体感させる取り組みも行った
一方で、中村俊輔氏(中村氏の列伝)をW杯メンバーから外すなどの決断は議論を呼び、協会や選手と衝突する場面もあった。
2002年日韓W杯
本大会では、初戦のベルギー戦を2-2で引き分けた後、ロシア戦に1-0、チュニジア戦に2-0で勝利し、日本代表を史上初の決勝トーナメント進出に導いた。決勝トーナメント1回戦でトルコに0-1で敗れ、大会後に退任した。中田英寿氏(中田氏の列伝)らを擁したこのチームは、その後の日本代表がW杯常連となる基盤を築いた存在として位置づけられている。